君主論 新版
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解説
この書物の主題 : 君主国とはどんなものか、その種類と、どのように領土を獲得し、どのように維持するか、領土喪失の原因が何によるかを論じる
著者自身が、ヴェットーリ宛の手紙で記している
構成の面から作品を概観すると、全体はおよそ四つの部分に分かれる
㈠ 国の分類と、その征服と維持の手段(第1〜 11 章)。国の分類は、世襲君主国と新君主国とに分かれ、新君主国には、併合した国と全面的に新しい国との細分がある。著者の関心は、とりわけ「市民型の新君主国」に向けられている。
㈡ 攻撃と防衛に関する軍事的側面(第 12〜 14 章)。永年、軍事担当のテクノクラートだっただけに、武力を自国軍、傭兵軍、支援軍、混成軍と類別し、それぞれの特徴を具体的に論じる。なかでも傭兵や支援軍の欠点を解き明かし、持論の自国軍整備の必要性、日常的訓練の大切さを説く。
㈢ 君主の資質(第 15〜 23 章)。ここでは為政者と民衆の力関係を、とくに人間心理の面から考察して、力量ある君主像について論じる。従来の理想主義的な君主像をくつがえして、チェーザレ・ボルジアなど、同時代の非情なリアリストを賞揚する。
㈣ イタリアの危機的現状の分析、さらに危機をのりきる君主の待望論。運命観をも含む(第 24〜 26 章)。イタリア半島の危機意識という面から、従来の君主たちの失政の原因を論じる。運命観では、悲惨な現状を逆手に取って、逆境こそ試練の場と 把 える独自の理論を展開する。最終章は「檄文」の趣きがあり、新君主への期待が熱く語られる。
『君主論』には、ひろくマキアヴェリ語録として親しまれる名言が随所に散りばめられている。それらの語句は、しばしば彼の思想のエッセンスとなっている。ここで幾つかの断片を拾ってみよう
「なにかを説得するのは簡単だが、説得のままの状態に民衆を引きつけておくのがむずかしい」(第6章)
「恩恵はよりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない」(第8章)
「善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって破滅せざるをえない」(第 15 章)
「大事業はすべてけちと見られる人物によってしかなしとげられていない」(第 16 章)
「人間は恐れている人より愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つける」(第 17 章)
「君主は、狐とライオンに学ぶようにしなければいけない」(第 18 章)
「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものではない」(第 18 章)
「人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう」(第 18 章)
「決断力のない君主は、多くのばあい中立の道を選ぶ」(第 21 章)
「運命は女神だから、打ちのめし、突きとばす必要がある」(第 25 章)
内容
国の分類と、その征服と維持の手段 (第 1 〜 11 章)
運(フォルトゥーナ)fortuna」と「力量(ヴィルトゥ)virtù」の語は、作者の政治理念のキーワードとなっている。
こういう国を征服した君主は、国の保持にあたっては、とくに二つの点を気をつけなくてはいけない。一つは、領主の昔からの血統を消してしまうこと、もう一つは住民たちの法律や税制に手をつけないことである。こういうやり方をすれば、きわめて短期間に、新領土は旧来の国と一体になって密着してくる。
言語も風習も制度も異なる地域の領土を手に入れたばあい、そこにはいろいろな困難が待ちうけている。それを維持するには、大いなる幸運と、たいへんな努力が必要になる。このさいの、もっとも効果的な対策の一つは、征服者が現地におもむいて移り住むことであろう。この方策をとれば、領土の保持がより確かなものとなり、より永続しよう。
なぜなら、現地に住みつけば、不穏な気配が生じてもそれを察知して、すみやかに善後策が立てられる。その反面、離れていれば、やっと耳に入るのは、暴動が大きくなってからで、策の打ちようがなくなってしまう。君主が住んでいれば、そのうえ、領地をあなたがまかせた高官 に略奪されるなどは、まず起きない。領民にしても、いつ何時でもじきじきに君主に救い が求められるので安心していられる。
最良の策の、もう一つをあげれば、領土の 足枷(拠点) ともなる一、二の箇所に、移民 兵 を派遣することである。
これにつけても覚えておきたいのは、民衆というものは頭を撫でるか、消して しまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないようにやらなければならない。
あらゆる角度から見て、移民兵は役に立つが、駐屯軍のほうは無意味である。
名君は、たんに目先の不和だけでなく、遠い将来の不和についても心をくばるべきであり、あらゆる努力をかたむけて、将来の紛争に備えておくべきだ。危害というものは、遠くから予知していれば対策をたてやすいが、ただ腕をこまねいて、あなたの眼前に近づくのを待っていては、病 膏肓 に入って、治療が間にあわなくなる。
しかも戦争を避けようとして、のちのちに禍根を残すなど、けっしてしなかった。なぜなら、戦争は避けられるものではなく、尻ごみしていれば、敵方を利するだけということを熟知していたからだ。
領土欲というのは、きわめて自然な、あたりまえの欲望である。したがって、能力ある者が領土を欲しがれば、ほめられることはあっても、そしられはしない。しかし、能力のない者が、どんな犠牲もいとわずに手に入れようとあがくのは、間違いであり非難に値いする。 人は戦争を回避したさに、混乱をそのままもちこすべきではない。戦争は避けられないものであって、ぐずぐずしていればあなたの不利益をまねくだけ
ほかの誰かをえらくする原因をこしらえる人は、自滅するということだ。そのわけは、彼がそのしたたかな策略と力によって、一人の人物を引き立てたのだが、いざ勢力をもつようになると、相手は、その両方の手段に不安を覚えてくるからだ。
彼ら君侯の気持を満たすことも、彼らを消すこともできないから、いずれかの機会に、国が奪われてしまう。
新しい制度を独り率先してもちこむことほど、この世でむずかしい企てはないのだ。またこれは、成功のおぼつかない、運営の面ではなはだ危険をともなうことでもある。というのは、これをもちこむ君主は、旧制度でよろしくやってきたすべての人々を敵にまわすからである。それに、新秩序を利用しようともくろむ人にしても、ただ気乗りのしない応援にまわっただけである。
民衆に何かを説得するのは簡単だが、説得のままの状態に民衆をつなぎとめておくのがむずかしい。そこで、人々がことばを聞かなくなったら、力でもって信じさせるように、策を立てなければならない。
人は、はじめのうちに基礎工事をしておかないと、あとになって基礎づくりをしても、多大の努力がいることになる。しかも、そのばあいは、建築家の苦労もさることながら、建造物そのものに危険がおよぶ。
敵から身を守ること、味方をつかむこと、力、あるいは 謀りごとで勝利をおさめること、民衆から愛されるとともに恐れられること、兵士に命令を守らせて、かつ畏敬されること、君主にむかって危害におよぶ、あるいはその可能性のある輩を抹殺すること、旧制度を改革して新しい制度をつくること、厳格であると同時に、丁重で寛大で 闊達 であること、忠実でない軍隊を廃止し、新軍隊を創設すること、国王や君侯たちと親交を結び、あなたを好意的に支援してくれるか、たとえあなたに危害を加えようとしても二の足を踏むようにしておくこと、以上すべてのことがらこそ、新君主国にあって必要不可欠なものと信じるならば、人は、公の行動ぐらい 生生しい好例を見いだせないだろ
一私人から君主になるのに、ほかにも二つの方法がある。これは、いままでのような、運とか力量とかに全面的に負うのではないから、ふれないわけにはいかない。もっとも、その一つは共和国を論じるところ で、さらに幅広い論議をつくすことになろう。二つの方法とは、ある種の悪らつ非道な手段で君位にのぼるとき、及び一市民が仲間の市民の後押しで祖国の君位につくときとである。 アガトクレスなどの人物が裏切りや残虐のかぎりをつくしたのに、彼らはそれぞれ自分の領土で長らく安穏に暮らした。よく外敵をふせぎ、いちども市民の謀反にあわなかった。それはいったい、どういうことか。一般に、僭主の多くは、その残酷さゆえに、むずかしい戦時はいうにおよばず、平時でさえ国が保持できないでいる。それなのに彼らは、どういうわけでそう暮らせたのか。人によっては、こう 訝る向きもあろう。 両者の差異の原因は、残酷さがへたに使われたか、りっぱに使われたかの違いから生じると、わたしは思う。ところで、残酷さがりっぱに使われた――悪についても、りっぱに、などのことば遣いが許されれば――、というのは、自分の立場を守る必要上、残酷さをいっきょに用いて、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換するばあいをいう。 要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の 憾みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。
結論として述べておきたいのは、ただ一つ、君主は民衆を味方につけなければならない。そうでなくては、逆境にあって対策の立てようがない。スパルタの王ナビス は、ギリシア全軍と常勝ローマ軍の包囲攻撃を耐え忍んで、祖国と領土を守っ
民衆を 礎 とたのむ人は、ぬかるみのうえに礎をきずくがごとし」の陳腐な 諺 を引いて、 反駁 などしないでもらいたい。
平時にあっては、誰もがみなはせ参じたり、約束してくれる。死がはるか彼方にあるときは、誰もが、わが君のために死をも辞さない、と言ってくれる。だが、いざ風向きが変わって、君主がほんとうに市民を必要とするとき、そんな人間はめったに見つかりはしない。それにしても、このような経験は、経験すること自体が危険きわまりないことで、まず一度しか味わえない。 したがって、賢明な君主は、いつ、どのような時勢になっても、その政権と君主とが、市民にぜひとも必要だと感じさせる方策を立てなくてはいけない。そうすれば市民は、君主にたいして、いつまでも忠誠をつくすだろう。
君主国の性質を調べるにあたって、もう一つべつの観点が必要である。それは、君主がいったん事あるときに、独力で守っていける国か、それともべつの第三者の支援が必要になる国かという点
人間というものは、その本性から、恩恵を受けても恩恵をほどこしても、やはり恩義を感じるものである。したがって、このところをよく考えれば、たとえ城攻めにあっても、食糧さえ欠乏せず、防衛手段に事欠かなければ、名君であれば、城内の住民の心を終始つかみつづけることもむずかしくなかろう。
攻撃と防衛に関する軍事的側面 (第 12 〜 14 章)
すべて国の重要な基盤となるのは、よい法律としっかりした武力
君主が国を守る戦力 : 自国軍、傭兵軍、外国支援軍、混成軍
傭兵軍および外国支援軍は役に立たず、危険
君主であれば、みずから指揮官の任務につき、進んで出ていくべきであり、共和国においては、その国の市民を派遣すべきで
すべてこうしたことが、彼らの戦争の 掟 として取り入れられ、いま述べたとおり労苦と危険を避けるために思いついたことだった。こうして傭兵は、イタリアを奴隷と屈辱の地と化してしまった。
第 13 章 外国支援軍、混成軍、自国軍
もう一つの役に立たない戦力 として、外国からの支援軍がある。これは、あなたが他の有力君主に、軍隊の支援や防衛を求めるときのことで
この種の軍隊はそれ自体は役に立ち、悪くはないのだが、おおかた招いた側に禍いを与える。なぜなら、支援軍が負けると、あなたは滅びるわけで、勝てば勝ったで、あなたは彼らの 虜 になってしまうからだ。
賢明な君主は、つねにこうした武力を避けて、自国の軍隊に基礎をおく。そして、他国の兵力をかりて手にした勝利など本物ではないと考えて、第三者の力で勝つぐらいなら、独力で負けることをねがった。
すべてを一緒にしたこの混成部隊というのは、純然たる外国支援軍とか、純粋に傭兵だけの兵力にくらべれば、はるかにましであるが、それでも自国軍にくらべると、はなはだ
君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる目的も、いかなる関心事ももってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない。つまり、このことが、為政者がほんらいたずさわる唯一の職責 である。
要するに、非武装が、あなたのうえにおよぼす弊害はさまざまだが、とくにそれによって、あなたが人に見くびられることである。そして、見くびられるのは、あとで(第 15、 19 章) 論じるとおり、君主が厳に戒めなくてはいけない汚名の一つである。
君主は、かたときも軍事上の訓練を念頭から離してはならない。そして平時において も、戦時をもしのぐ訓練をしなければいけない。そこで、訓練には二つの方法が
もう一つの、頭を使っての訓練に関しては、君主は歴史書に親しみ、読書をとおして、英傑のしとげた行いを考察することが肝心である。戦争にさいして、彼らがどういう指揮をしたかを知り、勝ち負けの原因がどこにあったかを検討して、勝者の例を鑑とし、敗者の例を避けねばなら
君主の資質 (第 15 〜 23 章)
人が現実に生きているのと、人間いかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。なぜなら、何ごとにつけても善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって、破滅せざるをえない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを習い覚える必要がある。そして、この態度を、必要に応じて使ったり使わなかったりしなくてはならない。
たほう人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。
君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。
アキレウスを初め古代の多くの王たちが、半人半馬のケイロン のもとに預けられて、この獣神に大切にしつけられたとある。この話の意味、つまり半人半獣が家庭教師になったというのは、君主たるものは、このような二つの性質を使い分けることが必要なのだ。どちらか一方が欠けても君位を長くは保ちえない、そう教えているわけだ。
りっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだと。たとえば慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情味があるとか、裏表がないとか、 敬虔 だとか、そう思わせなければならない。また現実にそうする必要はあるとしても、もしもこうした態度が要らなくなったときには、まったく逆の気質に変わりうる、ないしは変わる術を心得ている、その心がまえがなくてはいけない。
君主は恩恵を与える役はすすんで引き受け、憎まれ役は他人に請け負わせればいい
人に恨みを受けるのは、ひとり悪行だけでなく、善行からも生まれることだ。だからこそ、前述の(第 17 章) ように、君主が国を保持しようとするときには、しばしばよからぬこともせざるをえない。
旧国土のうえに、新しい領土を手に入れて、いわば手足のように併合した国のばあいを考えてみよう。このばあいでは、すべての領民を非武装にしておかなくてはいけない。ただし、征服時にあなたの陰の支援者にまわった人々は除外しておく。そして彼らについても、時の 経つにつれて、折あるごとに、女々しく軟弱にしてしまう必要がある。
強靭な君主国にあっては、内部の分断策などけっして認められるものではない。なぜなら、平和な時代でこそ、この手段で領民をらくに操って効果をあげられもしよう。だが、いったん戦争ともなれば、この政策の失敗が歴然としてくる。
国外の勢力を恐れるより、自国の領民を恐れる君主は、城を築くべきだ。ただし自国の領民よりも外敵を恐れる君主は、築城を断念すべきだ。
君主が衆望を集めるには、なによりも大事業(戦争) をおこない、みずからが類いまれな手本を示すことである。
また君主は、どこまでも味方であるとか、とことん敵であるとか、いいかえれば、この人物を支持し、あの人物は敵視するということを、なんのためらいもなく打ち出すこと、それでこそ尊敬されるのである。
思慮の深さとは、いろいろの難題の性質を察知すること、しかもいちばん害の少ないものを、上策として選ぶことをさす。
身にあまる栄誉を 委ねて、もうそれ以上の名誉を望まないようにすること、 望外 の財産を与えて、それ以上の富を望まないように、過ぎた職責を委ねて、変革をこわがるようにしむけることである。秘書官がこうで、君主の秘書官への態度がこのような関係であれば、たがいに信頼しあうことが
思慮の深い君主のとるべき態度は、第三の道でなければならない。すなわち君主は、国内から幾人かの賢人を選びだして、彼らにだけあなたに自由に真実を話すことを許す。しかも君主の下問の事がらに限って、ほかの論議を認めないことに
君主はつねに人の意見を聴かなくてはいけないが、これは他人が言いたいときにそうするのでなく、自分が望むときに聴くべきである。いや、君主が訊ねるとき以外は、誰にも君主に助言しようなどの気持をもたせないようにすべきで
誰からりっぱな進言を得たとしても、よい意見は君主の思慮から生まれるものでなければならない。よい助言から、君主の思慮が生まれてはならない。
イタリアの危機的現状の分析、さらに危機をのりきる君主の待望論 (第 24 〜 26 章)
責任を運命に負わせては困るのだ。これは、彼ら君主の怠慢のせいである。――いいかえれば、 凪 の日に、 時化 の ことなど想ってもみないのは、人間共通の弱点であって――彼らもまた、平穏な時代に天候の変わることをまったく考えなかった。
われわれ人間の自由意志 は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配にまかせてくれているとみるのが本当だ
運命は、まだ抵抗力がついていないところで、猛威をふるう もので、堤防や堰ができていない、阻止されないと見るところに、その 鉾先 を向けて
人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。 要するに運命は、女性に似てつねに若者の友である。若者は思慮を欠いて、あらあらしく、いたって大胆に女を支配するもの だ。